Egypt West Delta Archaeological Project

調査の経緯

図1

図1

本研究の対象地域は、歴史的にはサイス王朝のもとに繁栄したナウクラティスとカノプスを繋ぐカノプス支流が走り、地中海とメンフィスを繋ぐ間の重要な流通拠点でしたが、後にアレクサンドリア建設後は外来のヘレニズム政権が地域権力を掌握していくための初期段階の重要な地域であったと思われます【図1】。ただこの湖周りの地域には古典作家の記述の対象にはならず、ストラボンなども、恐らくカノプス運河でメンフィスに遡行しながら私たちの研究対象地域の南側のシャブリアを通過する際に、右手側(南)には村落がマリユート湖に至まで密集している点を強調しつつ左手側(北側)にはほとんど何も無いと意識されていることが窺われます。【図6】

図6

図6

この地域は文献に殆ど登場しない地域であり、考古学からの解明が期待されます。マムルーク朝時代には、10km四方内では、2~3の村落が散見できる程度の地域です。ナポレオンの『エジプト誌』は、イドゥク湖の周りをたいへん荒廃した様子で描いています。考古学研究者が最も利用するのはMahmud al-Falaki作成の地図(1866年)ですが、この時点では、既に『エジプト誌』の段階より、湖面範囲は半分に縮減しています。さらに20世紀にはハイダム建設や開発の波が襲い、今の湖面は19世紀初頭の約1/4となっています。従って、この地域の調査を押し進める際には、環境復元は重要な課題となるのです。

私たちは既に、環境変化を知るために、地質ボーリング調査を行い、前3100年頃(先王朝時代)には既にこの地域は淡水の湖環境になっていることを確認し、現在は歴史時代の環境を探っています【図7】。
またCORONA衛星画像を活用した研究では、この地区に大きな砂丘列があったことが分りました(1960年代には一部はもう削平開発が始まっています)【図8】。従って、この地域の特徴は、砂丘堆積が重要な鍵となり、ナイルの氾濫に際してはいくつかの小砂丘列に分化し、氾濫水に取り囲まれる環境にあったこと、また砂丘上のマウンド高地が有力な遺跡テリトリー(つまり村落としての役割を果たしていたこと)になっていたことが想定されました【図9】。

図7

図7

図8

図8

図9

図9

 

 

 

 

それではそのように経済的に脆弱な地で人々はどのような暮らしぶりを送っていたのでしょうか。地形を観察してみると、南北のラインでは、北から地中海、砂丘、塩水の湖、砂丘、淡水の湖、緑地帯と続き、環境の偏差が大きく、この地勢を利用して活発な経済活動が行われていたと推測されます。一方、東西にフラットな地勢は、ひとたび作り上げられた文化の型が拡散していく母胎となったでしょう。

図10

図10

人々の暮らしぶりは、具体的には、塩分にも強い作物を細々と栽培し(瓜科、ゴマ科)、魚(塩水ではボラ、さより、淡水ではナイルティラピア、コイ、なまず)や鳥(カモ、サギ、アジサシ)を捕獲し(魚も鳥も湖の塩分濃度に敏感に対応した分布)、沼沢地に生える葦を加工してむしろを作るなどの生業が行われていたと推測されます。つまりそこから推測されるのは「生業複合」であり、ファラオ時代のナイル沿岸の低地像(豊かな麦作の場)とは大きく異なります【図10】。従来のアレクサンドリア古典考古学では、アレクサンドリアそのものの都市構造かせいぜいマリユート湖沿岸、外郭に目が向けられるとしても、アレクサンドリアとメンフィスの間の流通路にある緑地帯、あるいはアレクサンドリアと西方砂漠の関係に主眼が置かれ、「低地」には目が向けられてこなかったため、私たちの低地研究は新しい光を投げ掛けることが期待されている、と言えるでしょう。

図11

図11

図12

図12

私たちはこの地域の中で、コーム・アル=ディバーゥ遺跡を研究対象に選定しました。この地域では、考古庁が登録している二つの中の一つですが【図6】、断面から確認されるように、砂丘(第4紀の環境変動期に形成か)を覆うシルトの上に造営された遺跡です。湖の周辺にはもともと、同様の砂丘状の集落が多く分布していたものが失われたと考えられます。イギリスの調査隊(P.Wilson)がごく簡単な地表面観察を行いましたが、基本的に未調査の遺跡です。私たちは2014年3月に、まずはそこの微地形測量図を作成しました【図11】【図12】。

遺跡は南北の二つの丘陵からなっており、北丘陵の方が小さいですが、歴史的な環境を考えると、たいへん見晴らしの良い場でもあることから、湾を通ってきた小舟の目印的な位置にあったと考えられます。一方、南側の丘陵は、250mx250mほどの規模を測り、地表面には煉瓦遺構の痕跡や生活雑器が多く分布していることから、集落址と考えるのが最も自然と思われます。また微地形測量によって、南丘陵には、ところどころに隆起した小山部分があったり、プラットフォーム状に伸びた部分がある点が明らかになりました。

図13

図13

2014年9月、私たちはまず3種の機材を用いて、探査を行いました【図13】。GPRは他の探査法より分解能が高く、様々な遺構の検出が期待された。特に空気と土壌の電磁気物性(比誘電率)は顕著に違うため、岩盤に穿たれた空洞(シャフト等)、土中に穿たれた空洞(墓孔、柱孔等)は顕著な応答が表れると考えられました。

 

 

図14

図14

磁気探査は、熱を受けた土壌・石の検出にも有効であるため、焼成煉瓦壁体、工房址(窯址)あるいは家庭内竈(かまど)址の検出を最も期待していた。電磁誘導探査は、金属物の検出に有効であり、また、溝跡などの含水率の高い土壌、及び石材などの抵抗が高い物体の検出に有効であると想定していた。機材探査に加え、日乾煉瓦壁体のクリーニングと表面分布遺物の観察を行い【図14】、これらを総合した成果は、日々、宿舎で検討が重ねられました。

 

図15

図15

まず最も顕著な反応が得られたのは南の丘の西斜面でした。全体の景観はこのような場所です。見た目には何も残っていませんが、よく観察すると、日干煉瓦壁体が多く分布しており、遺物の表面分布も多い場所です。この地区で行った磁気探査の反応図は、ここに分布している集落址を見事に捉えていると考えられます。集落の分布は丘陵のほぼ西~南側に集中しており、遺構はいずれも東西軸よりやや傾斜した軸線をもち、丘の北側と南側の境には周壁状の遺構が走る。地表面からの遺物は概ねローマに位置付けられることから(東方シギラータA土器の存在や、ヘレニズム時代のアンフォリコスの存在等)、集落の最も重要な活動時期を後1~3世紀(あるいはやや古いか)に想定できると思われます【図15】。
一方、南の丘の最南端には、焼成煉瓦を用いた施設の存在が考えられ、この部分はビザンツ時代と考えるのが自然と思われます【図16】。

図16

図16

さらに、丘の中腹からは、煉瓦規格は36cmL,19Wx4枚分ののたいへん壁圧の厚い壁(144cm)がみつかり、周壁をなす可能性が得られました。丘の頂上部からは、神殿ナオスの基部と思われる遺構部分がみつかりました。ナオスの横幅は約660cm、壁圧は76cmで、煉瓦規格は38cmL,20wを測りました。ナオスは横長の部屋を南面させた一室構成であり、入口の位置は中心から若干東側にずれています【図12】。周壁とこのナオスは同一の構造体をなす可能性があり、丘の西側に広く広がる集落は、この神殿周域に発展した典型的な神殿周域住居(Temple Precinct)を形成していたと思われます。これらの遺構ははたしてどのような重なりを示しているのでしょうか。

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